のーたいとる(2019年8月20日版)

時ってのはどうもひどいもので、私が1990年を歩いてみたいと思っても叶わぬ願いなのだ。私が住むこの場所から、望めばおよそどこにでも行けるというのに、どうあがいても時だけは移動できない。

そしてその思いはきっと、2050年になったときの私も変わらないのだろうから、記憶にすべて残すのは無理にしても、出来る限り記録に残しておかなければなぁと思う。案外ありきたりと思っている日常で見る景色とか、一方静かに消えていく――看取られることもなく消えていく何かとか。それを見つけるのって大変だけどね。

小学生の頃に遊んだ空き地や道路の記憶はあっても、少なくとも私の手元にその場所の写真はないんだよね。その記憶だってどんどん薄れていくだろうに。

というかそれって、そのときにしか見れない光景という物理的だけじゃない条件もあって、かつ時間的だけじゃない社会的な条件もあるわけじゃないですか。たとえば小学校で遊んでいるときの私の目から見た光景とか。図書館の姿とか。でもまあ、新刊搬入時の匂いとかすべてを残すのは非現実的でもあるからなんともいえないか。

昔の世界の姿を見たときに覚える狂おしい感情は、一体何なんだろうね。