のーたいとる(2019年8月25日版)

のーたいとるだけどテーマのある話。24時間テレビというインターネッツで忌み嫌われる存在の話。

はじめに

もともと私は嫌いなものに対してすべきことは『何もしない』だと思っている。なので端から"忌み嫌う"ことに批判的である。ただし、『誰かが嫌いと言うこと』が嫌いなわけではないことに留意してほしい。むしろその点は、なんでわざわざ嫌いと言うのかが気になっているところである。

今回記事にしたのは、なぜそこまで忌み嫌うのか、叩くことが目的になっているんじゃないか?という率直な疑問点、おかしな点を書いてみようとしたということである。

あと微妙なところであるが、障害を持った人が感動の種として使われているのは事実であると考えている。ただ、障害を持っているからではないと思っている。普段から感動をつくる番組なんて無限にあって、かつそれを求める視聴者がいる。単に24時間テレビでは障害を持つ人(など)にフォーカスがあるだけだと思っている。

チャレンジすることの意義

確かに先述したとおりでお涙ちょうだいな、感動のための苦難を用意して挑戦しているというのは事実かもしれない。少なくとも健常者に比べたら難度は高い(人もいるだろうし、そう見える)。その上、仮に望まない挑戦をさせられているのだとしたらそれは確かに咎められるべきだし、BPOも動くべきだし色々と問題があるはずだ。

けれどそうじゃなくて、障害を持った人が望んで挑戦したいというのなら、その挑戦自体を咎めるのは悪手だとしか思えない。例えば今年のこの企画なんて、個人で挑戦したいと言ったからって実行できるようなもんじゃないだろう。

『それはその人にとって難しいからやるべきじゃない』『なにか障害があるから挑戦するべきじゃない』なんて言葉は、少なくとも私には正気で発言できるようなものじゃない。まだまだ24時間テレビが存在する意義はあると私には思う。

予算とか

番組作るのにN円かかってるよとか、出演者にN円払ってるよ、募金募るくらいならそのお金を寄付したら?って理論、普通に破綻してると思うんですよ。テレビってほぼノンストップで毎日やってる中でこの番組があるわけで、その理論で言ってしまうとテレビ番組作らないで寄付し続けたら?みたいなおかしな話になる(益を寄付しろ!としても益のために番組を作っているわけでやっぱりおかしい話)。

普段のテレビ番組と違って、放送することで視聴者が寄付してみようって行動を起こすわけで、本来生まれるわけのない場所から寄付が生まれているんですよ。

あと、たしかにメディア――テレビは情報を取捨選択して伝えるわけだけど、それでも少なからず情報は伝えてる。私はあまりその世界に詳しいわけじゃないけど、あんまり例のない病気であったり、障害を持った人の生き方であったり、それをテレビが伝えるというのも一つの役割であるんじゃないかなと思っている。

終わりに

別にこの番組が好きとか嫌いとかあるだろうし、そもそもテレビというメディアが好きとか嫌いとかあるだろうから、それぞれがそれぞれでいいと思う。ただまあ、憎むがゆえに心が荒んでしまうなら、ひとまず離れて心を豊かにする方法を探したほうが幸せになれるだろう。


総じて感情的な話でエビデンスベース・ソースベースな話になっていないので、異論反論投げやすいと思うんですけど、言いたいことが伝わってくれるといいなぁと願っております。

例が少ない難病とか経済的な負担とかどうなのか知らなかったり、そういう人たちを実際に支える事もあんまり知らないなって改めて思いました。

発端はTwitterで、障害を持った人が更に苦難を課せられるのは……というツイートを見たことがきっかけでした。障害持ってたら夢持つなって言ってるようなことなのを自覚しているのか、理解に苦しみました*1。苦難を乗り越えずに叶えられる夢もあるかもしれないけど、苦難を乗り越えないと叶えられない夢だってあるじゃないですか。利益のためだろうが、例え偽善でも、苦難を乗り越えて夢を叶えようとする人を支えるのは悪いことだと思えません。

まあ番組の裏に何があるかなんて当事者しかわからないのだから、こうは言ったものの全部やらされてたことだったら可愛そうだなぁって気がします。雰囲気が特に好きなわけじゃないので24時間テレビ自体見てないんですけどね。

*1:確かに障害ゆえに叶えられなくなってしまった、叶えられない夢があることは事実だと思います。それに関して私はなにも言うことができません