lifeについての解説その1

初めに

lifeは現在私が制作している、シミュレーションゲームに便利なライブラリっぽいものです。

機能面がシミュレーションゲームに向いているだけで、ゲーム内でどこにいるのかを管理するためだけに使うことも出来るし、パラメータ管理*1だけを使うことも出来ます。これはアドベンチャーゲーム、所謂ギャルゲーにも使えると思います。頑張ればRPGにも……?

ちなみに勢いで機能を列挙したので、テストも書いてないし動く保証がありません。この記事はそんなわけのわからんやつの雰囲気を自分のためにまとめるものです。

Overview

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lifeの構造

〜完〜って気分なんですが、大体全体図はこうです(元画像を含むツイートはこちら)。

life内に大きく5つの分類があって、必要に応じて問い合わせてViewScriptを受け取り表示するという仕組みです。

それぞれのアイテムやロケーション、アクション、イベントはrequireとeffectというFunctionを含むことが出来ます。これによって使用可能、移動可能、行動可能、発生可否やその結果を処理します。それらのFunctionにはparamsが渡さます。例えばeventであればstate.inventory.addItemでアイテムを追加してstate.lifeStatus.healthが減少。もしそのときにstate.lifeStatus.health < 30ならAパターン、それ以外ならBパターンのViewScriptを返す。みたいな処理をする形になります。

ちなみにitemはparamsを持っておらずstateがparamsを持っているのですが、これはstate.inventoryにitemが含まれていて、state.inventory.useでアイテムを消費するために持っています。なのでゲームを作る側からするとitemのほうがparamsを持っているという感覚に近いかもしれません。

早くも〆です。マジで概要だけ書きました。眠いので寝ます。完成させられたら天才なので自分で自分を褒められるようにがんばります。

Twitter見てて、努力してる人とか頑張ってる人を見ていて、私もやらないとな……という気になってきて動き始めた感じがあります。

ポエムのコーナー

私にだって世界は変えられる。せめて今日見る景色は変えられる。

私が私を褒めるから、私は私に褒められるように頑張ってほしい。

〆の〆

そんなことで一歩ずつ、でも少し急ぎ足で進めていきたいと思います。また記事にするか、動く姿を見せるか……という感じです。

なんかきりよくいい感じに〆られないのでここで筆を置くことにします。読んでくれた方ありがとうございます。

*1:ブログを書いていて気がついたのでIssueが立てました。なのでまだ実装されていません

のーたいとる(2019年9月2日版)

ブログを書かないと○されるので書きます(適当)

特に内容がないようww

私の場合だと独占したいって思いと、相手が幸せになってほしいという思いの板挟みが起こってしまって、おそらく身を引いて幸せを願うのが"美しい"と感じてしまうのだと思う。なんとも言語化しにくいのだけど、これは自己犠牲的というか、私の思いを押し込めるという行動に酔っているのだと思う。現実的に、それが結論を出してしまうことを怖がっているのだとしても、行動に酔ってさえいれば間違っていないといい切れる。

追記: なんとなく、きっと引かない選択肢に幸せはないだろうと気がついているのかもしれない。今の選択がどんなものでも、それが失敗の選択肢だなんて思って選んでいる人なんてそう多くないだろうし。まあ、成功だと思い込まなければやっていられないなんてこともあるけれど。

ショートストーリー

「それで、どうなったの?」

「結局のところ別れるのはやめたってさ。やめたところで何も解決してないのにね」

飲み屋で交わされる、浪費されてきた話題のようなものだ。多くの人が通ってきた人間関係の道だから誰にでも持論があって、いつまででも語り続けられる。

「好きって思いと、合わないなって思いが重なった時って何が起こるんだろうね。絶望? 失望? むしろ希望?」

「一方的に好きで合わないなら始まりもしないにしても、互いに好きだけど合わない、って気がついたときには絶望にも似た感情を覚えるだろうね」

別に好きの思いは万能じゃない。生活をともにするのなら特に。

「あーあ、彼女たちを見ているといいなぁって思っていたんだけどなぁ。いつも、たとえ私たちと一緒にいるときじゃなくても変わらないんだろうなって思っていた」

「わかる。多分何も変わらなかったんだろうな。互いが互いに自然にいて、ほとんどぴったりだったのに、私たちといない時間に起こる自然がちょっとズレていたっていうだけ」

油とタバコとアルコールの空気に、しんみりした空気が流れている。果たして人間が合うというのは一体どんなことなのか。人が生きていて、果たしてどれだけの確率でその感覚に巡り会えるというのだろうか。

「よし、酒を頼もう」

「私も飲むー。ストロングゼロピッチャーで頼んでくれない?」

まだまだ夜は明けない。これは浪費されるだけの物語のかけらだ。

それはそうと

いつも人と人という話題を見ると、ユネスコ憲章の前文を思い出す。

この憲章の当事国政府は、その国民に代って次のとおり宣言する。

戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。

相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。

ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。

文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。

政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。

これらの理由によって、この憲章の当事国は、すべての人に教育の充分で平等な機会が与えられ、客観的真理が拘束を受けずに探究され、且つ、思想と知識が自由に交換されるべきことを信じて、その国民の間における伝達の方法を発展させ及び増加させること並びに相互に理解し及び相互の生活を一層真実に一層完全に知るためにこの伝達の方法を用いることに一致し及び決意している。

その結果、当事国は、世界の諸人民の教育、科学及び文化上の関係を通じて、国際連合の設立の目的であり、且つその憲章が宣言している国際平和と人類の共通の福祉という目的を促進するために、ここに国際連合教育科学文化機関を創設する。

国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)/The Constitution of UNESCO:文部科学省より引用

相互に知らないということは、究極的に戦争すらも招いてしまった。この文章もプロパガンダ的であるといえばそうなのだが、一旦そこには触れないことにする。

結局のところこのケースは他の国であるけれど、我々の生活で触れる人だって想像以上に別の世界に生きていて、本来は知る必要があるのにもかかわらず暗黙の了解のように思い込み、決めつけによって相手を定義しているんじゃないだろうか。

もっとコミュニケーションを取るという必要はあるのかもなって思ったりしたという話でした。まあ私にはあんまり関係のない話です。一方的に私について発信ばかりしているのですが、一向に私のことを知ってくれる人がいないなあと思っています。難しいね。

もう終わるよ

コミュニケーションって互いの情報交換だよねって話書こうとしたんですが、流石にもういいかなって思ったのでこのあたりで筆を置きます。

きっと美少女もこれくらい書いたら許してくれるでしょう。

ここまで読んでくれた人いたら感謝します。ありがとうございます。

のーたいとる(2019年8月25日版)

のーたいとるだけどテーマのある話。24時間テレビというインターネッツで忌み嫌われる存在の話。

はじめに

もともと私は嫌いなものに対してすべきことは『何もしない』だと思っている。なので端から"忌み嫌う"ことに批判的である。ただし、『誰かが嫌いと言うこと』が嫌いなわけではないことに留意してほしい。むしろその点は、なんでわざわざ嫌いと言うのかが気になっているところである。

今回記事にしたのは、なぜそこまで忌み嫌うのか、叩くことが目的になっているんじゃないか?という率直な疑問点、おかしな点を書いてみようとしたということである。

あと微妙なところであるが、障害を持った人が感動の種として使われているのは事実であると考えている。ただ、障害を持っているからではないと思っている。普段から感動をつくる番組なんて無限にあって、かつそれを求める視聴者がいる。単に24時間テレビでは障害を持つ人(など)にフォーカスがあるだけだと思っている。

チャレンジすることの意義

確かに先述したとおりでお涙ちょうだいな、感動のための苦難を用意して挑戦しているというのは事実かもしれない。少なくとも健常者に比べたら難度は高い(人もいるだろうし、そう見える)。その上、仮に望まない挑戦をさせられているのだとしたらそれは確かに咎められるべきだし、BPOも動くべきだし色々と問題があるはずだ。

けれどそうじゃなくて、障害を持った人が望んで挑戦したいというのなら、その挑戦自体を咎めるのは悪手だとしか思えない。例えば今年のこの企画なんて、個人で挑戦したいと言ったからって実行できるようなもんじゃないだろう。

『それはその人にとって難しいからやるべきじゃない』『なにか障害があるから挑戦するべきじゃない』なんて言葉は、少なくとも私には正気で発言できるようなものじゃない。まだまだ24時間テレビが存在する意義はあると私には思う。

予算とか

番組作るのにN円かかってるよとか、出演者にN円払ってるよ、募金募るくらいならそのお金を寄付したら?って理論、普通に破綻してると思うんですよ。テレビってほぼノンストップで毎日やってる中でこの番組があるわけで、その理論で言ってしまうとテレビ番組作らないで寄付し続けたら?みたいなおかしな話になる(益を寄付しろ!としても益のために番組を作っているわけでやっぱりおかしい話)。

普段のテレビ番組と違って、放送することで視聴者が寄付してみようって行動を起こすわけで、本来生まれるわけのない場所から寄付が生まれているんですよ。

あと、たしかにメディア――テレビは情報を取捨選択して伝えるわけだけど、それでも少なからず情報は伝えてる。私はあまりその世界に詳しいわけじゃないけど、あんまり例のない病気であったり、障害を持った人の生き方であったり、それをテレビが伝えるというのも一つの役割であるんじゃないかなと思っている。

終わりに

別にこの番組が好きとか嫌いとかあるだろうし、そもそもテレビというメディアが好きとか嫌いとかあるだろうから、それぞれがそれぞれでいいと思う。ただまあ、憎むがゆえに心が荒んでしまうなら、ひとまず離れて心を豊かにする方法を探したほうが幸せになれるだろう。


総じて感情的な話でエビデンスベース・ソースベースな話になっていないので、異論反論投げやすいと思うんですけど、言いたいことが伝わってくれるといいなぁと願っております。

例が少ない難病とか経済的な負担とかどうなのか知らなかったり、そういう人たちを実際に支える事もあんまり知らないなって改めて思いました。

発端はTwitterで、障害を持った人が更に苦難を課せられるのは……というツイートを見たことがきっかけでした。障害持ってたら夢持つなって言ってるようなことなのを自覚しているのか、理解に苦しみました*1。苦難を乗り越えずに叶えられる夢もあるかもしれないけど、苦難を乗り越えないと叶えられない夢だってあるじゃないですか。利益のためだろうが、例え偽善でも、苦難を乗り越えて夢を叶えようとする人を支えるのは悪いことだと思えません。

まあ番組の裏に何があるかなんて当事者しかわからないのだから、こうは言ったものの全部やらされてたことだったら可愛そうだなぁって気がします。雰囲気が特に好きなわけじゃないので24時間テレビ自体見てないんですけどね。

*1:確かに障害ゆえに叶えられなくなってしまった、叶えられない夢があることは事実だと思います。それに関して私はなにも言うことができません

のーたいとる(2019年8月20日版)

時ってのはどうもひどいもので、私が1990年を歩いてみたいと思っても叶わぬ願いなのだ。私が住むこの場所から、望めばおよそどこにでも行けるというのに、どうあがいても時だけは移動できない。

そしてその思いはきっと、2050年になったときの私も変わらないのだろうから、記憶にすべて残すのは無理にしても、出来る限り記録に残しておかなければなぁと思う。案外ありきたりと思っている日常で見る景色とか、一方静かに消えていく――看取られることもなく消えていく何かとか。それを見つけるのって大変だけどね。

小学生の頃に遊んだ空き地や道路の記憶はあっても、少なくとも私の手元にその場所の写真はないんだよね。その記憶だってどんどん薄れていくだろうに。

というかそれって、そのときにしか見れない光景という物理的だけじゃない条件もあって、かつ時間的だけじゃない社会的な条件もあるわけじゃないですか。たとえば小学校で遊んでいるときの私の目から見た光景とか。図書館の姿とか。でもまあ、新刊搬入時の匂いとかすべてを残すのは非現実的でもあるからなんともいえないか。

昔の世界の姿を見たときに覚える狂おしい感情は、一体何なんだろうね。

昨日学んだ知らない世界

グラブルやってたりやってなかったりする立場なんですけど、ひょんなことから元団+関係者(?)の飲み会に誘っていただきました。


んでまあ、まずそもそも私自身が飲み会とかに参加したことも多くなくて、飲み会やっても一般的な(ストレス発散みたいな)飲み会の雰囲気ではなくてパソコン開き始めちゃう感じで、飲みが進むに連れてテンションが上がっていったり沸点下がりまくったり、なんか面白いなぁと思ってみていました。

単に普段の生活上、共同生活故に互いが互いに縛られあっているのかなという気もして、あまり深くまでは関わったことがない(けど名前は知ってる)くらいの距離感だったのも良かったのかなと思った。

そんな生活をしてきたので、飲食というかアルコールを飲むような場所にもあまり行かないので、少なくともふらっと回った三件全てに興味深いなって思う点はあって、こういう世界を知らなかったのをもったいないと思った一方で、積極的に動けるのほんとすごいなぁと感心した。

割とどこまでも一人でいけてしまう*1のが問題なのかなぁというのは、春の旅行でも言われて思った。


あとすごくアレなところなんだけど、皆さん女性関係あるってすごくないですか(素)。ブチギレてる。キレるな。

根本的に先述した通りで性別関係なく人間関係がないってのがFAなんですけど、更に女性関係ってなるともうそれ何回天井したらいけますかね。無理でしょ。絶対俺のテーブルだけ0%だし。天井対象絶対ならないし。

まあこれに関してはうーん……解決策とかないよね。私が成長するか、諦めるか。諦めも成長なので、成長するという選択肢しかないみたいです。はい。

$ git add growth

$ git commit -m "諦めた"


昨日何より学べたのは、人間関係を築くってのは人間関係を知ることも、人を知ることも出来るし、それに付随したすごくたくさんの、自分の知らないことを知らせてくれるってことでした。

あ、なので私からも何か吸い取ってください。LoL神ゲーだってこととか、I've Sound最高だぞってこととか、堀江晶太の楽曲はいいぞってこととか、支払いはKyashでやると楽ですよってこととか。

うーん、でもまあ、私はコミュニケーションを取るのが得意ではなくて、私は私を押し込むことしかできないんですよね。双方向通信ではなくて単方向通信しかできない。私はこんなこと知ってる!これいいよ!!としか言えない。やっぱコミュニケーションって難しいね。だからブログを書くしTwitterやるんだけどね。


以上、せっかくだし新しい経験だなって思ったからブログに書いてみた。こういう生きてる日記って書いてて楽しいね。新しいことするってめちゃくちゃしんどいけど、なんだかんだ得るものはほんとに大きい。

企画・幹事などなどありがとうございました。Twitterなどなど、今後ともよろしくおねがいします。

*1:物理的に行けるというのもそうだし、問題があっても解決してしまえる・しまうというのもそうだし、一人であることを特に厭わないというのもそう

LoLの何が面白いかって話

たしかにクソみたいに時間拘束されるよなぁと思ったんだけど、少なくとも過去プレイしていて(あるゲームのプレイヤーが言うように)懲役だと感じたことは一切ないし、むしろ試合が始まってから終わるまでは一瞬のように感じている。それはまるでこのゲームに吸い込まれているかのような感覚。

私は間違いなくこのゲームを神ゲーだと思っているし、最高に面白いゲームだと思っている。んで、なんでそう思うのか、率直に書いてみることにした。

1.どうあがいても公平であること

このゲームはマッチング、バランスにおいて、少なくとも公式の姿勢として公平である。二週間ごとくらいにバランス調整はあるし、Redditを含め様々な方法で公式に声を届けることも出来る。

基本的に、マッチングした10人の平均した実力は大差ない*1。その上、このキャラクターを取ったら勝てるだろうということもそうそうない。どうあがいても、試合が始まるときは公平であるという事実が大きな価値を持っている。

それ故にeSportsというシーンもとても広い。個人的にはこちらも推してるので後述。

2.勝利というものに対する中毒性

1.のおかげで勝利というものに対する中毒性が異常に高い。

負けるということは自分を含めて味方のチームがうまくプレイできなかった(実力上は大差ないので、下手だった、技術的に劣っていた、というのは適さないと思っている)ということであって、逆に言えば勝てたということは自分を含めて味方のチームがうまくプレイしたということである。

自分には少なくとも1/5の仕事があって、それを果たして勝てたという事実の中毒性があまりに強いと感じている。

もちろん、1/5以上に――つまりMVPのような活躍をすることの中毒性は更に高い。誰もが勝ちを目指しているし、緊迫した試合ならなおさらMVPを掴み取るべく、過去に得た経験を生かして戦っていく。

誰しもが敵の陣地を破壊する瞬間のために戦っているのだ。

3.誰もが完璧になれないという現実

勝ったからと言って終わらないし、負けたからと言って終わらない。誰もが完璧になれないという現実がそこにはある。

これは世界一のプロでも翌年に負けるなんてことはざらにあるし、それはレートの低いプレイヤーならなおさらである。

それでもキャラクターをもっと使いこなせるようにしたいとか、集団戦*2で立ち位置がもう少し改善できたとか、あのシーンであそこを狙ったら良かったとか、視界*3の取る場所を他の場所にしておけば敵の場所に気がつけたかもしれない……のように、無限のような要素故に生まれる無限の改善点が浮かんできて、次の試合ではもっとうまくやってやろうという気になる。

番外編:eSportsシーンの存在

LoLというゲームがどれほどに熱い戦いを体験できるものかはなんとなくわかったと思う。そんな中で存在するeSportsシーン、通称競技シーンについて紹介したいと思う。

競技シーンとはその名の通り、LoLを競技としてみなして行われるもののことである。特に各地*4で行われるプロリーグや、そのプロリーグを勝ち上がったもので争う世界大会などを示すことが多い。

それぞれのチームには、各地のサーバーでも上位0.1%に入るような最高の技術を持つプレイヤーたちが所属している。

そんなスーパープレイヤー(やコーチ)たちがチームで練習を行い、普段のゲームでは見ることの出来ない試合展開を魅せてくれるのだ。特にチームならではの連携したスーパープレーには、会場から悲鳴が上がることもある*5

ちなみに観戦はYouTubeなどで配信されていて、もちろん無料である。現在、日本語での配信があるのはKR(韓国)とJP(日本)の大会のみだが、世界大会になるとそちらも日本語で配信が行われるので安心して見れる*6

今年の世界大会は10月2日から始まり、11月10日に決勝戦が行われる。残念なことに今回の開催地はEUなので、時差の関係上日本だと観戦がしにくいかもしれない。決勝戦の開催現地時間が従来通り(15時)であれば、日本時間だと23時開始になるかなと予想している。だいたいBO5(3本先取)だと最大5時間~6時間なので、最悪明け方まで続くだろう。

しかし応援するチームが出来るとNAの大会(大体5:00~6:00頃開始)すらも起きてしまうので、まずは下記する参考サイトからYouTubeやTwitchでハマってくれることを願っている。

参考サイト

ゲーム公式サイト

LoLeSports公式Youtubeチャンネル

 The Pentaというシリーズがプロのファインプレー集なのでおすすめです。

日本語Wiki

英語Wiki

TwitchのLoL配信一覧

統計サイト*7

私の好きなSneaky選手のYouTubeチャンネル

*1:注:仕組み上、初心者でプレイ数が1桁とかだと狂いやすい

*2:試合中に起こる大人数の戦い、特に5v5に近い人数のことを言う

*3:マップは霧で覆われているのでトーチで照らす必要がある

*4:大きな地域としてはNA, EU, KR, CNなどが挙げられる。もちろん日本にもある

*5:主にやられた側のファンがあまりの衝撃に叫んでいたりする。極端な例だと実況の人すら叫び始める

*6:他の地域もだいたい英語の配信があるのと、ぶっちゃけ実況がなくてもまあ試合自体は観戦できるので問題はない。ただ実況や解説があると、次の予想される展開などを話していたりするので楽しみは広がると思う

*7:キャラクターの勝率や、アイテム・スキル取得のおすすめ順などをまとめている

思いつきで書いたのでのーたいとる(2019-08-13版)

心配も応援も極めて無責任な行為である。

しかしその根幹にある感情を誰が咎めることが出来るのか。何らかの能動的無責任さの上で持つなら控えるべきであるが、自分の中で自然発生的に生まれてしまった――というか芽生えてしまった感情は、当の本人でさえも少なくとも消し去ることは難しい。

ただ、その感情を表現するのかということについては十分に考える必要はある。まあ、確かにこの国では表現の自由があるわけで表現することは問題ないのであるが、仮にその感情が対象を思うものであれば思うものであるほど、対象に負の影響を与えない表現でなければ感情との乖離が生まれてしまうのではないだろうか。

表現することが必ずしも感情と一致した結果を生むわけではないという現実が、長い間私の中にある感情の行く末なのだろう、という雑感を文章にしてみた次第である。